新渡戸稲造

~世界の平和に生涯をささげた~

 にとべ いなぞう

 新渡戸 稲造(1862~1933)

■略歴   ■著作

東京で英語を、札幌で農学を学ぶ

五千円札肖像の新渡戸稲造博士は文久2(1862)年8月3日(新暦9月1日)、父・十次郎と母・せきの三男として盛岡に生まれた。当時父、祖父が行っていた三本木原開拓の地域で初めてとれた稲にちなみ、幼名を稲之助と名づけられた。慶応3(1867)年稲造が5歳の時、父・十次郎が亡くなり、藩内の賢婦人として名高かった母・せきの教育のもとに育ち、明治4(1871)年9歳の時、祖父・傳の勧めもあり、東京で学ぶため叔父・太田時敏(傳の四男、太田家に養子)の養子となり上京した。東京では主に英語を学び、語学の才能を現す。明治8年13歳の時、東京英語学校に入学。この頃から生涯の親友となる内村鑑三(キリスト教思想家)、宮部金吾(植物学者)と親交を深める。その後、父祖の志を継ぎ農学を修めるため、明治10(1877)年内村、宮部とともに札幌農学校に入学したが、これには明治9年明治天皇が東北御巡幸の折り、父祖の行った三本木原開拓をご嘉賞された事が大きく影響している。そして、入学の翌年には洗礼を受け(洗礼名・パウロ)クリスチャンとなり、友人達とともに信仰と勉学の日々を送った。

「父や祖父の子といわれるように、偉い人にならねばなりません」と幼い頃から稲造をさとした母・せきとは、9歳の時東京に上京してから一度もあわずにいたが、明治13年18歳の時、10年ぶりに札幌から帰省した。しかし、「ハハキトク」の電報と入れ違いに帰郷した稲造は、母の死を知らずにその亡骸と対面する事となる。この事は長く稲造の心に暗い影を落としたという。稲造は後に、母からもらった手紙を一巻の巻き物にして、母の命日には一人静かに部屋に引きこもりそれを開くのを習慣としていた。

アメリカ・ドイツ留学、そして万里夫人との結婚

明治14年、札幌農学校を卒業。開拓使御用掛、農商務省御用掛を経て、明治16(1883)年上京し、成立学舎英語教師を一時務めるが、東京大学に入学する。有名な「太平洋の橋になりたい」という稲造の言葉は、この入学試験の面接で試験官に答えた言葉である。大学で英文学とともに農政学研究のため経済学・統計学を学ぶが、より進んだ学習を望み翌年東大を退学、アメリカへ留学しジョンズ・ホプキンス大学で経済、農政、歴史、英文学などを学ぶ。このアメリカ留学の間に、後に結婚するメリー・エルキントン嬢とクエーカー派の集会で運命的な出会いをする。

明治20年母校・札幌農学校から、助教として3年間農政学研究のためドイツ留学する事を命ぜられ、ドイツへ渡る。その後3年間のドイツ留学の間に、ボン大学、ベルリン大学、ハレ大学で農政学、農業経済学、財政学、統計学などを学び、明治23(1890)年学位論文『日本の土地所有、その分配と農業経済的利用について』でハレ大学より文学士、哲学博士の称号を与えられる。また、この前年長兄・七郎が亡くなり、明治17年にすでに次兄・道郎も亡くなっているので三男だった稲造が新渡戸家を継ぐ事となり、新渡戸姓にもどっている。

3年のドイツ留学の後、研修期間を半年延期してアメリカへ渡りジョンズ・ホプキンス大学から『日米関係史』を出版する。そしてドイツ留学中、文通により心を通わせてきたメリー・エルキントン嬢と明治24(1891)年フィラデルフィアで結婚した。(メリー嬢は日本人となり万里と改名)のちに和解するが、当時はエルキントン家から強い反対があり、結婚式にメリー嬢の両親は出席しなかったという。

札幌農学校教授時代 一子・遠益の死と遠友夜学校の設立

帰国後札幌農学校教授となるが農学関係科目だけでなく語学など多くの科目を受け持つとともに、教務主任、図書主任なども兼ね多忙の日々を送る。翌年、明治25(1892)年一子・遠益が生まれるが生後一週間余りで亡くなる。稲造の悲嘆は大きく、20年ほど後に執筆した『修養』の中でその悲しみに付いて「子を失った悲しみは暫く口に出すことも苦痛だったが、最近やっとそれほどでもなくなった」とかたっている。そんな悲しみの中、翌明治26年、エルキントン家で引き取って育てた孤児の女性が亡くなり、遺産1000ドルを万里夫人に残したとの事で送金があった。夫妻は相談して、それを資金に勤労青少年のための夜学「遠友夜学校」を設立する事とした。夫妻の亡き子どもに対する思いがそうさせたのだろう。

この遠友夜学校は札幌農学校の生徒が中心となって教師となり、授業料は無料、教科書なども全て学校が用意する完全なボランティアで運営された。そして後に軍事教練を拒んだ事から廃校に追いやられるまで、50年の間運営され約1000人の生徒を世に送り出し、中退者なども含めると6000人もの生徒が学んだという。

病気療養中に『武士道』執筆、その後台湾植民政策で台湾財政を独立させる

札幌農学校教授として多くの授業をかかえ、舎監なども兼任するという余りの忙しさに、ついに明治30(1897)年過労のため脳神経症となり鎌倉、伊香保で転地療養する。療養中『農業発達史』『農業本論』をまとめ、翌年職を辞しアメリカ・カリフォルニアで療養するが、その間にも名著『武士道』を執筆した。明治32年日本初の農学博士となり、その後、民政長官をつとめていた後藤新平と農商務大臣からの強い要請で、台湾総督府で働く事となる。稲造が提出した『糖業改良意見書』をもとに台湾糖業の振興が進み、台湾財政の独立に大きく貢献した。「住民の利益を尊重する」という考え方のもと行われた稲造の台湾での植民政策は歴史的に見ても特筆すべき一例であろう。

一高校長をはじめ教育者として尽力

明治36年台湾総督府臨時糖務局長と兼任で京都大学教授となり、植民政策について講義する。翌年から京都大学教授専任となり、明治39(1906)年京都大学より法学博士の学位を受け、同年、東京帝国大学農科教授と兼任するかたちで第一高等学校校長となる。大正2(1913)年退任し東大専任教授となるまでの六年間、稲造は一高校長として欧米的な自由で革新的教育方針のもと生徒を教育し結果的に、多くの立派な人材を社会に送り出している。しかし、当時は学校内外の保守的な人々から批判を受けそのため退官する事となった。明治44(1911)年には初の日米交換教授として、アメリカの大学でも講義を行ない「日米のかけ橋」の役割も確実に果たしていく。またこの頃から『婦人に勧めて』を執筆するなど当時立ち後れていた女子教育にも熱心に取り組み、大正7(1918)年 東京女子大学の初代学長としてその設立に力を尽した。
稲造の教育は一貫して「人格教育」を重視するもので、教え子たちにはコモンセンス(常識)の重要性を教えている。

国際間の使徒として平和のため捧げた晩年

第一次大戦の終結を受けて、大正9(1920)年国際連盟が結成されると、稲造は事務局次長としてジュネーブに滞在し、国際間のかけ橋となる。大正11(1922)年にはノーベル賞受賞者を主な委員として、教育、文化の交流、著作権問題、国際語の問題などを審議する知的協力委員会を発足させたが、この委員会は現在のユネスコの前身にあたり、今もその精神は受け継がれている。

大正15(1926)年事務次長を辞任後、貴族院議員としても活動するが、この頃から各地を講演してまわりながら三本木、盛岡、札幌とゆかりの地を訪ねていく。昭和4(1929)年太平洋問題調査会の理事長となり、同年京都で開催された第三回太平洋会議では議長を務めた。翌年には英文大阪毎日で“Editorial Jottings”(編集余録)連載を開始、昭和6(1931)年には故郷岩手県の産業組合中央会岩手支会長に就任、また東京医療利用組合設立へも尽力し活動は様々な方向への広がりをみせていた。

しかし、同年9月満州事変が勃発、日本への非難が高まり日米関係が悪化していくと「太平洋のかけ橋」としての役割をはたすべく奔走する。この頃から体調を崩していたが、上海で行われた第四回太平洋会議に出席し、日中関係の改善を模索する。その後、松山での講演の折り軍部の暴走により戦争につながる事への憂慮を記者へもらした所、在郷軍人会や右翼から攻撃を受け身の危険にまでおよび、ついには帝国在郷軍人会評議会で陳謝する事となってしまう。いよいよ日米関係が悪化した事を感じた稲造は、昭和7(1932)年渡米し、出渕駐米大使とともにフーバー大統領を訪問、さらにスチムソン国務長官との対談をラジオ放送でおこなうなどして日本の立場を訴えたが、アメリカ世論を敵にまわしてしまい「渡米は松山事件からの保身のための行動」との大きな誤解を受ける。

日本、アメリカ両国で多くの友人を失い、日米関係改善の目的も達成できぬまま昭和8(1933)年3月帰国、その直後日本は国際連盟を脱退する。その後の5ヶ月間、稲造は死を予感する人のように旧知の人々を訪ね、三本木の祖父の墓・太素塚や盛岡などを訪問しており、同年7月には以前から気にかけていた「唐人お吉」ゆかりの地をたずね、お吉が入水した渕に慰霊のため「お吉地蔵」を建立する事を人に頼んだ。

8月、平和への最後の望みをつなぎ、カナダのバンフで行われる第五回太平洋会議に出席するため太平洋を渡る。会議では体調の優れない中で日本側代表としての演説を成功させるが、その一ヶ月後病に倒れ、昭和8年10月15日、カナダのビクトリアで 71歳の生涯を閉じた。稲造の死後、第二次世界大戦が起こり人々は多くのものを失った。しかし、命の最後まで平和のために尽くした稲造の生涯は今、現代の人々に多くのことを教えてくれる。

五千円札の肖像

新渡戸稲造は昭和59年11月1日発券 五千円札の肖像画になっているが、この肖像画は、当記念館収蔵の写真(右)をもとに作られたので、発券と同時に A〇〇〇〇〇一B の番号の五千円札が日銀総裁から当館へ贈られた。この一番の五千円札は2階稲造コーナーにもととなった写真とともに展示している。

■新渡戸稲造略歴■  Inazo Nitobe 1862‐1933

主な出来事
文久2(1862)年
新渡戸十次郎の三男として、盛岡鷹匠小路下ノ橋の邸に誕生(幼名・稲之助、翌年稲造と改名)。
明治4(1871)年 
叔父・太田時敏の養子となり上京、太田姓となる。
明治8(1875)年
東京英語学校入学。
明治10(1877)年
札幌農学校第二期生として入学。
明治14(1881)年 
札幌農学校卒業、開拓使御用掛となる。
明治16(1883)年
東京大学入学。
明治17(1884)年
アメリカ、ジョンズ・ホプキンス大学に留学。
明治20(1887)年
札幌農学校助教に任命され、ドイツ留学。
明治22(1889)年
長兄七郎の死によりその跡をつぎ新渡戸姓にもどる。
明治24(1891)年
メリー・エルキントン嬢と結婚、札幌農学校教授。
明治25(1892)年
1月19日一子・遠益が生まれるが生後9日目に亡くなる。
明治27(1894)年
札幌に勤労青少年のための遠友夜学校設立。
明治32(1899)年
日本初の農学博士。
明治33(1900)年
アメリカで「Bushido-the soul of Japan」出版。
明治34(1901)年
台湾総督府技師となる(台湾製糖業の発展に尽力)。
明治36(1903)年
京都帝国大学法科大学教授兼任。
明治39(1906)年
法学博士となり、第一高等学校長、東京帝国大学農科大学教授兼任。
明治42(1909)年
東京帝国大学法科大学教授兼任(農科大学教授退任)。
明治44(1911)年
初の日米交換教授としてアメリカで講義。
大正7(1918)年
東京女子大学初代学長。
大正9(1920)年
国際連盟事務局次長就任。
昭和元(1926)年
貴族院議員就任。
昭和8(1933)年
8月カナダバンフでの太平洋会議に日本側理事長として出席、10月15日(日本時間の16日)ビクトリアで逝去(71歳)。

■ 『開拓の申し子稲造 ―その魂と言葉の世界―
稲造の歌を通して、その精神・魂を探る稲造に関する新しい研究』   東京女子大学名誉教授 松川教授による記念講演

東京女子大学名誉教授 松川成夫先生 平成10 年7 月26 日 十和田市にて。

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