人物用語集

新渡戸記念館に関わる用語を写真などとともに解説する図鑑です。下のINDEXから項目を選択してご覧下さい。

INDEX
反骨の兵法学者

新渡戸 維民(1769-1845)

新渡戸維民は、明和6(1769)年伝助、栄子の長男として花巻に生まれた。若い頃から剣、槍を好み、20歳の頃、盛岡で上杉流の兵法を学んだ。当時花巻から盛岡まで毎日歩いて通っていたという。45歳の時、上杉流兵法師範となり、武官として権征軍師湛泉剛弼と号した。

維民の兵法書

文政3(1820)51歳の時、藩は花巻城縮小の政策を打ち出した。維民は兵法学者としての立場から花巻城の重要性を若い藩士達に説いたところ、藩議への反対の首謀者とみなされ、同年一二月半地取り上げの上、北郡川内(現・下北郡川内町)へ流された。長男・傳は、直接お咎めを受けなかったが、父を助けるため川内へ向い、商人として家計を助けた。維民の受けた誤解がとけ、花巻帰住を許されたのは六年後の文政9(1826)年だった。

晩年は多数の兵法書を著わすとともに、要門(=上杉流兵法)師範として多くの門弟を指導した。弘化2(1845)年76歳で亡くなる。当館に残る多数の兵法関係資料が、その足跡を伝えている。
三本木原開拓の祖

新渡戸 傳(1793-1871)

傳の日記からわかるその性格

写真左。右は従者栃内清

新渡戸傳は寛政5(1793)年、維民、秀子の長男として花巻に生まれた。14歳の時から毎日日誌をつづり、死の直前まで書き続けた。これは『新渡戸傳一生記』と、それを清書した『太素日誌』各七巻として現在当館に残っており、そこから三本木原開拓の様子や当時の社会情勢だけでなく、傳のものの考え方や性格も知る事ができる。

日記によると、傳は一四歳の時から勉強をはじめるが、成績はあがらなかった。しかし、21歳の時、心を入れ替えて熱心に勉強するようになったという。傳が学んだのは、四書五経、七書、種子島流砲術、田宮流居合術、戸田流剣術、新当流槍術、上杉流兵学(謙信流ともいう)その他柔術、和歌などであった。また、同じく21歳の時から「三ヶ条深慎み」として「夜は九9に臥し、朝は6つに起き、食は3碗位」(12時に寝て、6時に起き、ご飯は3杯位)と自分で決めて守っていたという。日記の記載からは、傳が一度決心したことはどこまでも実行していく強い信念と、粘り強さの持ち主であったことが伺える。

又、傳は37歳の時、長男・十次郎(10歳)と次男・古陸を仙台城下の木綿店と金物店へそれぞれ奉公させている。日記によると、傳は世の中が武士の世であるとはいえ富や実権は商人の手にある事を察し、子どもの将来を考えれば、実の無い武士の修業より、商家の丁稚奉公の方が良い教育の場であると考えたようで、形式よりも実質を重視する人物であった事がわかる。

傳の大器をみぬいた盛岡本家の新渡戸丹

盛岡本家の新渡戸丹波は、南部盛岡藩の家老もつとめた人物であるが、少年時代の傳の大器を見抜いていたという。江戸時代後期、南部藩では異国船の侵入に備えて、海辺警備のため、遠見番所、御陣屋、御台場を築き大砲をすえていた。下北半島にもその御台場があり、大砲、種子島の銃術、短銃の調練などを行った。文化3(1806)年には南部藩の重臣であった新渡戸丹波、長内良右衛門の両士が海防見分のため下北の海岸沿いを巡視し、「巨霊神」という大砲の試射をやらせている。この時、新渡戸丹波は、当時まだ13歳の傳(幼名・縫太)を、将来の大器と見込み、盛岡から遠く下北まで連れて来たと伝えられている。若い傳に見聞をひろめさせる配慮であろう。傳が後年成し遂げた三本木原開拓の成果を考えれば、新渡戸丹波の先見の明といえる。

 

※花巻新渡戸家の祖は慶長3(1598)年初めて南部家臣となった新渡戸春治の三男・常綱で、この家系に傳は生まれる。宗家・盛岡新渡戸家の禄高は500石(高知家格)と高く、丹波は家老もつとめたが、それに対して花巻新渡戸家の禄高は多い時でも100石で、傳の父・維民の時は50石以下になった。その後、幕末に行われた傳の三本木原開拓などにより、禄高は177石にまでなっている。

材木商としての成功

新渡戸傳27歳の時、父・維民が藩の政策に反対し北郡川内村(現・下北郡川内町)に流され、家計を助けるため傳は商人となり以来17年間材木を中心に商いをしていた。この間、傳は意外な商才を発揮し大きな利益を上げた。特に文政11(1828)年、傳35歳の時に江戸で大火があり、この時十和田山(十和田湖周辺の山)から材木を切り出し江戸で売った事は、大商人への足ががりとなった。

傳は、十和田山から木材を切り出すにあたって、山礼金として地頭・奥瀬内蔵に1ヶ年50両を収めた。そして十和田湖を物資の輸送ルートに活用し、奥入瀬川をつかって材木を八戸の鮫まで流し、そこから船で江戸まで運ぶ方法をとった。しかし、当時十和田湖は信仰の山であり、古くから「忌み言葉」など禁じられた事が多く、舟については十和田湖に浮かべる事も禁止し、例外的に丸太をくりぬいた小舟を「キツ」と呼んで使っていた。そこで、傳は祭文を読み神に祈ってその禁を解き、ある程度大きさのある船を十和田湖に浮かべ、米、味噌などの物資を効率よく輸送した。また、忌み言葉も自由に使わせたという。さらに傳は、遠州・駿州(静岡県)信州(長野県)など先進地へ赴き、切り出し方法を自ら習得して杣(きこり)たちに伝授した。『太素日誌』によると特に「挟手(桟手の事か)の仕掛け組み方」(丸太をはしご状に組んで細い柴を編みつけたもの=桟手を使って水が少ないところで材木を動かす方法)「本角取り」(製材方法)「川流し瀬切り法」(小材を使い川をせき止め流れをコントロールする方法)の三法を習得し教えた。十和田湖の水を半年以上せき止め奥入瀬川の水かさを90㎝に増し、流れにくい所では傳が学んできた方法を使って八戸の港まで5ケ月かけて材木を流した。

槻や桂など年間約4000本の木材を、文政10年から3年間にわたって十和田山から切り出し、3年間に切り出した材木は合計約11400本、大材では縦横約1m、長さ7m半のものもあったという。

これにより利益をあげ、千石船の融還丸、運光丸を買い取り手広く商いを行っていった。迷信にとらわれない合理的な傳の性格が商売を成功に導いたといえる。南部盛岡藩の兵法学者新渡戸維民の息子として花巻(現岩手県花巻市)に生まれる。号を太素(たいそ)という。傳27歳の時、父維民が藩の花巻城縮小の方針に反対したとして川内(現青森県下北郡)に流され,傳も川内で商売をはじめる。44歳で商人をやめるまで、材木商として活躍。任官後は勘定奉行などをつとめ、特に開拓事業に力を発揮。花巻近辺で多くの開田に成功した後、62歳の時三本木原開拓を藩に願い出て新田御用掛として1855年(安政2)着手。人工河川・稲生川を開削し、現在の十和田市発展の基礎を築く。最晩年には七戸藩設立を策し成功、1869年(明治2)七戸藩家老、後大参事となる。1871年(明治4)三本木(現青森県十和田市)で逝去、太素塚に埋葬された(78歳)。

新渡戸傳名言

傳はいつもぜいたくをいましめていた。特に父・維民が川内に流されて以来は、節約と忍耐を家訓として「笛や太鼓、三味線などの鳴物を家に入れると化物が出る」と言っていたという。

ある時、傳が駕籠に乗って外出している時、どこからか弦歌さんざめく音が聞こえてきたので、駕籠かきが「旦那様あれは何でしょう」とたずねたところ、傳は「あれは金の逃げて行く音だ」と答えたという。

傳はどんな時でも一度床に入るとすぐ眠ってしまい、いつも人に「自分は心配した事がない。心配と飯の食い溜めは役に立たぬものだ」と言っていたという。
近代都市計画の先駆者

新渡戸 十次郎(1820-1867)

文政3(1820)年、新渡戸傳と知恵子の長男として花巻に生まれる。江戸で勉学を修め特に兵学に秀いでた。22歳の時中奥小姓となり、翌年江戸御勘定奉行、藩主利剛公の兵学お相手も勤め、安政2(1855)年には函舘御台場築立に携わっている。同四年三本木新田御用掛となり父・傳の後継者として開拓に従事、人工河川・稲生川の上水に成功する。そして万延元(1860)年新町・稲生町について十二町四方碁磐の目状の都市計画を行ったが、これは近代都市計画のさきがけといわれている。文久元(1861)年には下北半島を廻らないよう、小川原湖とむつ湾を結ぶ「むつ運河」開さくを計画し工事に着手するが、この工事には土木技術者・菊池市右衛門がたずさわっており、この人物は新渡戸氏知行地江釣子村(現北上市)の肝入もつとめ、三本木原開拓の土工頭取(工事監督者)吉助、力蔵達をさらに取りまとめた人であった。そこからもこの工事がいかに大規模に行われたかが伺われる。しかし、翌2年、4町(約430m)掘り進んだところで十次郎が御勘定奉行御元締として江戸詰となり、残念ながらむつ運河は未完に終わった。

十次郎は、翌年御用人を仰せ付けられ、御用銅の増産政策で功をあげた事から、翌元治元(1864)年鉄鉱山掛を命ぜられ大阪、京都へ行った。その後、慶応2(1866)年再び三本木原の第二次上水計画に着手、10万石の収穫を目指し、翌3(1867)年には困難な藩財政をたてなおすため領内の絹を税として物納させ、それをフランス人に直接売り、その収益の一部から三本木原開拓の事業費も捻出しようと献策した。しかし、国産物を外国に与えるのはけしからぬとざん言され、蟄居を命ぜられて、御加増分・金方100石(父・傳から家督相続した後石高に計上される分で、現金支給されていた)を取り上げられた。特別の配慮によりお許しが出たが、失意のため病気になり同年12月24日47歳でなくなった。

開拓の志継ぐ

新渡戸 七郎(1843-1889)

新渡戸七郎は天保14(1843)年十次郎、せきの長男として盛岡に生まれた。幼名・四五六。安政4年14歳の時、父・十次郎と共に三本木原開拓に従事し、開拓、街割の監督をする。(この年名前を邦之助と改める)

慶応3(1867)年、父・十次郎の逝去により、翌明治元年三本木新田御用掛を仰せ付けられるが、同年さらに戊辰戦争の軍事視察を仰付けられ上京する。明治2(1869)年、(この年七郎の名を南部利剛公より拝領、邦之助から七郎と名前を改める)盛岡藩権少参事となり活躍するが同四年九月祖父・傳逝去のため、藩の職を辞し、後を継ぐべく青森県への出仕を願い出て許され、七戸出張所管村授産掛を拝命、三本木出張所詰となる。この頃困窮していた斗南藩士(元会津藩士)の救済等に活躍する。

しかし、明治6年病を得て職を辞し上京。その後は三本木原開拓での経験を生かし、主に土木技術者として働く。明治一二年、福島県猪苗代湖安積疏水工事を担当し、明治16年から山口県鹿脊坂トンネル、茨城県月居トンネル工事等にも携わる。明治19年43歳の時土木会社「現業社」をおこし、日本鉄道会社から福岡(現 二戸)〜一戸間の鳥越トンネル工事を請け負い、工事を指揮するが、病のため明治22年4月、46歳で亡くなった。

世界の平和に生涯をささげた

新渡戸 稲造(1862-1933

新渡戸稲造は1862年(文久2)十次郎の三男として盛岡(現岩手県盛岡市)に生まれた。9歳で叔父太田時敏の養子となり東京へ出る。札幌農学校卒業後、アメリカ、ドイツへ留学。農学、経済学などを学び、札幌農学校教授、台湾総督府技師、京都帝大教授、旧制第一高等学校校長、東京帝大教授などを歴任。教育者として多くの人材を育てる。1911年(明治44)初の日米交換教授としてアメリカで講義。当時立ち遅れていた女子教育にも取り組み、1918年(大正7)東京女子大学初代学長となり設立に尽力。1920年(大正9)国際連盟設立時には事務局次長としてジュネーブに滞在(1926年退任)。太平洋問題調査会理事長などもつとめ、国際平和に貢献。1933年(昭和8)カナダ・バンフ太平洋会議に日本側理事長として出席し、ビクトリアで逝去。71歳。1984年(昭和59)五千円札の肖像画となっている。主な著書 「Bushido-the soul of Japan」(英文・武士道/1900年)「農業本論」(1898年)「修養」(1911年)「世渡りの道」(1912年)など多数。

更に詳しく

太田 練八郎(時敏)

三本木新田御用掛。傳翁の四男であったが、盛岡藩士太田金五郎の養子となる。文久3(1863)年三本木新田御用掛を仰せ付けられる。後、長兄・十次郎の三男稲造を養子とする。後年南部伯爵家の家令。

新渡戸 収蔵(常久)

三本木新田御用掛。花巻御給人上田惣兵衛二男。傳の養子として五男となる。傳翁、十次郎の補佐役として開拓に従事。文久2(1862)年、十次郎が江戸詰めとなると三本木新田御用掛を仰せ付けられる。(翌年太田時敏にかわる)三本木原開拓を終えた後は松岡仙弥の養子となる。

宮 良助

盛岡の人。盛岡藩士。宮謙平と親類。御勘定吟味役の後、傳翁の三本木原開拓発表に参画、安政元(1854)年7月計画の最初から参加し、十ヶ年士の対象となったものを中心に同志を多数集め大いに協力した。

宮 謙平

開墾締役。盛岡の人。盛岡藩士。宮良助の親類。よく開墾事業の締役を果たし、特に水路修繕、樹木植立移民奨励にたずさわる。明治維新後は二見屋清次郎となり商業にも精励した。

北田 易人

用水普請測量方。盛岡の人。盛岡藩士。測量の高等技術をもって人工河川・稲生川の水路決定に尽くした。

蛇口 伴蔵

八戸藩士。号を山水という。三本木原開拓の大望に共感し、特に資金面で大きく協力する。自らも八戸で開拓を志した。

八重樫 吉助 

穴堰普請総頭取。和賀郡後藤村(現岩手県)の人。最初より傳翁に随従し土工総頭取をつとめる。

後藤 理喜蔵

二代目穴堰普請総頭。和賀郡後藤村の人。吉助をよくたすけ、吉助死後総頭取となる。

金崎 環

新渡戸家四天王筆頭。三陸大槌(現岩手県)の御給人。父・権右衛門とともに三本木へ来て開拓に出資協力。金崎町を創設する。大槌より農家を多数移住させる。環は後に大槌に帰り、子孫が大槌に在住。ほか、縁故者で現在大槌に「三本木屋」を名乗る店がある。

中島 庄司

新渡戸家四天王。宮古(現岩手県)の人。父・庄助は検断(今の裁判官)をつとめ澄月寺過去帳の一番はじめに名前が記載されている。父と共によく勤め、会所(開拓事務所)で「書き役」をする。明治五(一八七二)年八月、三本木最初の第四区戸長となる。傳翁亡き後、新渡戸家の後見人となり明治九年、十四年の明治天皇御巡幸に際しても大役を果たす。

岩館 善八

新渡戸家四天王。一戸(現岩手県)の人。諸種番屋の鍵預り役をつとめる。会所(旧六丁目東裏通り角)の裏門(現太素塚通り)に住み、町方の良き相談役となる。長男・精素は大正時代「ひげのおじいさん」と呼ばれ、長年産馬組合の書記長として地方馬産につくし、また歌人、識者として十和田湖宣伝に尽力した。

安野 清兵衛

新渡戸家四天王。七戸の人。傳の十和田山伐り出し時代(文政の頃・一八二〇年代)から縁故がある。後に、傳が下北の川内で商人をしていた時使っていた屋号・太と安野姓をもらう。当初酒屋をしていたが後、稲生町五丁目に宅地をもらい旅館を建てる。消防組頭としても功績あり。 

私設・新渡戸文庫

大正14年(1925)新渡戸稲造博士は、蔵書約七千冊を、三本木(現十和田市)の文化向上のため寄贈。それをもとに、新渡戸訓(稲造の従兄弟)、その兄太田常利(太田家へ養子に出た)などが協力して博士の祖父・傳の墓所・太素塚地内に私設図書館を設立。文庫一階に博士蔵書(農業、法律、政治、経済、産業、文学等広範囲にわたる専門書籍)と父祖傳来の古書を保管。二階には代々伝わる武具と、三本木原開拓の文献などが置かれた。
私設新渡戸文庫は、太素塚境内の現在新渡戸記念館があるあたりに建っていた。

太素塚(たいそづか)

1921年(大正10)には新渡戸傳を三本木原開拓の祖と仰ぐ人びとによって大きな「鳥居型の門」が太素塚前に建てられ、現在も太素塚の象徴となっている。太素塚とは1871年(明治4)新渡戸傳が三本木(現十和田市)で亡くなった時葬られた墓所で、現在その墓と墓を中心とする一角全体を太素塚とよんでいる。「太素」とは新渡戸傳の号で、1866年(慶応2)73歳の時、自分の好きな播州御影石を大阪で購入し、直筆で「太素塚」と刻ませた。そして、三本木原を見渡せる小高い場所に、自らの墓所を定めこの石を建立したと伝えられる。さらにこの場所には、ひのき、杉、松、栗など約300本を植えさせている。

太素顕彰会(たいそけんしょうかい

明治時代の太素塚
左は明治5年(1872)に新渡戸十次郎をはじめ新渡戸一族と、開拓功労者の位牌堂として、十次郎の長男・七郎が建てた「照瑤堂」。照瑤(しょうよう)は十次郎の号。
太素顕彰会の前身は、太素・新渡戸傳の没後明治時代につくられた「太素講」。講長は町長、市長など歴代首長が務める。当初、新渡戸傳と十次郎の偉業の顕彰を目的として太素祭の主催を中心に活動。しかし、その後大正14年(1925)に私設新渡戸文庫が建設されると、文庫内の資料の保存も規約に加えられ、昭和39年(1964)の新渡戸記念館建設着工を機会に現在の「太素顕彰会」と改称、太素塚と記念館の運営等を行うようになった。

稲生川(いなおいがわ)

奥入瀬川から水を引き、三本木原台地(上北郡東部、東西約40km南北約32kmにわたる台地)を東西に太平洋岸まで横断する人工河川。1855年(安政2)に新渡戸傳(新渡戸稲造の祖父)を中心に太平洋岸まで約39kmの水路を掘る計画で工事がはじめられ、1859年(1859)5月4日導水に成功、傳と長男十次郎、孫七郎の三代によって1871年(明治4)頃までに2箇所の穴堰(トンネル)約4kmを含む約11kmの水路が完成している。その後も開拓事業は地域のひとびとによって受け継がれ、太平洋岸までの水路が完成。さらに1937年(昭和12)には国営開墾となり、支流も増え現在総延長約60kmとなっている。

碁盤の目状の都市計画

幕末、新渡戸十次郎が京都の市街を模して、謙信流の兵法にもとづき考案した都市計画。往還を中心に東西南北十二町四方にひろがっている。この計画では表通りで約16m、裏通りでも約12mと道路はかなり広い。また用水路を多く設け衛生面、防災面に配慮。土地利用区分も考えており、今日近代都市計画の先駆的な例として注目されている。1859年(安政6)稲生川への導水に成功後、この計画にもとづき1860年(万延元)頃から町作りに着工。しかし当時は資金不足などから計画の半分ほどを区画するにとどまっていた。その後も開田、水路拡充を重視する時代の流れの中でこの都市計画はなかなか実現しなかったが、第二次世界大戦後の復興期に再開され、十次郎の計画をそのまま踏襲する形で市中心街の整備が行われた。

新渡戸氏の歴史

「檀那の前」跡

新渡戸氏が南部氏家臣となってはじめて居住した場所安野村「檀那の前」跡(現岩手県花巻市内)。現在その場所には花巻新渡戸記念館が建っている。

新渡戸氏の歴史は鎌倉時代始めまでさかのぼる。下総(現千葉県南部)の千葉常秀が源頼朝につかえ、軍功をあげ、下野国(しもつけのくに)新渡戸・高岡・青谷の地(現栃木県)を賜った。それから五代後の貞綱の時、その領地にちなんで「新渡戸」を名乗ったのが、新渡戸氏の始まりといわれている。その後,戦国の乱世に敗れ北上し、江戸時代の始め頃南部氏の家臣となり、安野村「檀那の前」(現岩手県花巻市)に居住した。

江釣子新渡戸観音堂(岩手県北上市)

新渡戸対馬守胤重は、天正4(1576)年、和賀(現・岩手県北上市)の領主・多田薩摩守義春の臣となり現在の北上市江釣子に「新渡戸観音堂」を建立した。山号寺号は人當山新渡戸寺。お堂は三間四面、瓦茸、本尊は十一面観世音。当国(南部=和賀・稗貫・志和)三十三所の内二十七番札所となっている。

その後新渡戸家は、慶長3(1598)年南部氏の家臣となり、延宝3(1675)年新渡戸佐五右衛門常政の代に、現北上市立花毘沙門堂境内に観音堂を移した。そして常政の娘・吟(29代南部重信公の側室、後に松貞院)は元禄14(1701)年江釣子村にお堂を再興した。さらに享保15(1730)年、常政の孫佐五右衛門常顕の代に、江釣子村のお堂を建てなおし、延宝三年以来立花にあった御本尊・十一面観音像を移し現在に至っている。この新渡戸観音像は系図によると新渡戸氏の先祖、下総(現・千葉県)の千葉常兼(?~1126)より伝えられてきた観音像である。現在新渡戸寺は「いわての名水」江釣子村の新渡戸観音水として、湧水20か所の一つに選ばれ「福がさずかる水」と信仰されている。

安野稲荷神社(花巻市高松)

新渡戸氏屋敷跡裏手には、安野村在住の新渡戸氏が、代々信仰した安野稲荷神社がある。春治から三代後の貞紹が、稲荷の霊夢を見て、地行所安野村居久根林の内に奥州総鎮護志和稲荷神社を勧請したのがはじまりといわれる。

以来新渡戸家の守護神として崇敬して来たが、元治元(1864)年5月、春治より九代後の傳、嫡子・十次郎、嫡孫・七郎の三人の名を以て神社の昇格を公文所に願い出て、「安野正一位稲荷大明神神号」を贈られた。さらに、正二位陸奥出羽按察使前大納言源有長卿の堅額を賜わり神社に掲げた。この時傳は50両の大金で本殿、幣殿、拝殿のほか舞楽殿、境内一切の整備を行なった。このことは境内の自然石に奉納金額とともに安野稲荷記念碑文として記されている。

尚この同じ元治元年5月、三本木原開拓地域の人々から信仰を集めていた千歳森稲荷大明神(現三本木稲荷神社)にも正一位の神号と前大納言源有長卿の堅額を賜わっている。

立花毘沙門堂(北上市立花)

北上市立花にある毘沙門堂は平安時代からある寺で、まつられている毘沙門天立像、二天王立像はともにその時代の作である。これらの像は昭和4(1929)年に国指定重要文化財となっている。この毘沙門堂は江戸時代初めよりこの地を知行した新渡戸氏(盛岡本家)の手厚い庇護のもと発展しており、毘沙門堂の周囲には三日月型の土塁が築かれ、毘沙門堂を星として新渡戸家の家紋「月星」をかたどった配置になっているという。
お問い合わせ

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